真面目に診断せよ

30日、ネットのピックアップニュースを見てあっけにとられた。

幕末の志士・坂本龍馬ADHD注意欠陥多動性障害)だった、というもの。

一応、「!?」が付けられているが、「現代の医師が真面目に診断」として、

(「真面目に」ってどういうことだろう?)

サラッと読めば強く裏付けされているような印象を与える。

 

あっけにとられたのは、ADHDと認定する根拠だ。

もちろん、原書にあたらずに早まったことは言えないが、

記事を書いたものの解説によると、

 

〈龍馬は、剣術では過集中の傾向があるが、組織の秩序には馴染めなかった。また遠慮がなく、人の話を聞かずよく居眠りしていたという同時代人の記録がある。よってADHDだった可能性はかなり高い〉

 

というのである。

 

さらにこう付け加えられている。

 

「日本の歴史を動かした偉人の一人がそうであったとしたら、ADHDを自認する者にとっても、輝ける希望の星というべき人物である」。

 

先天性の障害とされるADHDが、上のような根拠で認定されるのならば、

そのことこそ衝撃のニュースだ。

 

「真面目に診断」してほしい。

 

 

 

 

 

 

閑話休題(小論文作成に関する覚書 No.9)

〈承前〉

 結論部は〈大〉論文であれば、それまで述べてきたことの〈まとめ〉でよいが、〈小〉論文ではでは、〈まとめ〉などしている余裕はない。小論文では、前段で示された「問題点の指摘」をうけて、それに即応した「解決策」を記す。策を示すことが小論文という問いに答えることになのである。ただし、策と言っても、非専門家のわたしたち(受験生)に、専門家が指摘するようなものが期待されているわけではない。そもそも、わずかな紙幅で策を講じることなどできない。

    そうではなく、求められているのは前向きな姿勢である。どんな困難なことでも、なんとかわたしたちで解決しようとする姿勢である。よって、国や行政が取り組むべきことだけを示すのではなく、むしろ、ここでは民間でできる努力目標を示さなければならない。考えてみると、非専門家のわたしたちによる一言二言のアドバイスで解決するようなテーマであれば疾うの昔に解決しているだろう。掲げられたテーマはわたしたち個人の力ではどうすることもできない大きな問題なのである。その大きな問題には即効薬などない。

(つづく)

わが家では、テレビを集中して観る、ということはない。

テレビはBGMとしてしか機能していない。

 

しかし、同居者もわたしも、作業の手がとまるときがある。

それは、テレビから猫の鳴き声が聞こえてきたときだ。

CMでも、ついつい見入ってしまう。

 

かつて、わが家にいた5匹の猫のうち、

最後の老猫が他界してから、もう5年くらいになるかな。

それ以来、わが家ではときどき、どちらからともなく、

「子どももいないし、猫飼う?」と言い出す。

しかし、お互いに、最期の辛さを知っているから、

「やっぱり、諦(や)めとこうか」となる。

 

台所の片隅には、捨てるに捨てられないカンカンとカリカリがまだある。

 

 

 

 

閑話休題(小論文作成に関する覚書 No.8)

承前

 では、どのように改めたらよいか。「問題点の指摘」というこの段の役割を考えながら以下のように修正してみた。

 

 今日のソーシャルメディアを介したいじめは、特徴とされる「手軽さ」が悪用されやすいことに原因がある。ルールを破ったものに対して共同で行われる制裁行為が、罪悪感を伴うことなく行われてしまう。問題は、それが第3者を閉め出した空間で行われ、それゆえに、加害者にはゲーム性の興奮を喚起させ、ときに被害者に自死を選択させるほどの苦痛を与える。皮肉にも社会性と相互性を旨とするソーシャルメディアは、いじめの手段とされることで閉鎖的で一方通行なツールとなってしまうのだ。

 

 たいして、内容的に変化がないようにみえるが、力点の置き方が修正前とは違っているのがわかるだろう。強調されたのは、いじめの原因がソーシャルメディアの特徴自体にあるのではなく、無自覚な「手段化」にあるということだ。無自覚であるゆえに、いじめが助長されやすい。しかも、手段として用いられたソーシャルメディアは社会性・相互性を謳っているゆえに、いじめ対策としてメスが入りにくい。これらは、「深読みレベルの解釈」でないと読み取れないということではないだろう。

(つづく)

歴史的な一日

現職のアメリカ大統領が被爆地・広島を訪れた。

 

わたしなどは、それだけで十分だと思った。

被爆者たちがオバマ大統領と笑顔で抱き合う姿を見てなおさらそう思った。

 

政治的な意味づけなどは頭のいい人たちがやればいい。

 

 

 

 

 

 

閑話休題(小論文作成に関する覚書 No.7)

承前

「問題点の指摘」は「本論」に相応するところで、論者の考えが具体的に提示される、論全体のなかで重要な位置を占めます。また、次段の解決策に繋がる点でも齟齬が生まれぬよう慎重に書きたいところです。単に、問題点の羅列になってはならず、不都合な状況を招いた原因のなかで、最も深刻だと思われるものとそれをいちばんに挙げる理由を記さなければなりません。

「いじめについて」というテーマで前に作った現状説明の続きとして、同テーマにおける「問題点の指摘」を以下に記してみる。

 

 今日のソーシャルメディアを介したいじめは、以前にもまして陰湿になっていると言われる。この陰湿さが加害者にはゲーム性の興奮を実感させ、被害者には強迫観念を植えつける。「既読無視」と言われ、仲間外れにされるという、内情を知らないものにとっては些事に見えることが、ときに被害者に自死を選択させるほどの苦痛を与えるのだ。皮肉にも双方向を旨とするソーシャルメディアはいじめの場では一方通行なのである。

 

一見、スムースに読めるように見えるが、この段の役割がはたして果たされているだろうか。前述の内容を繰り返すならば、この段は「問題点の指摘」であり、「不都合な状況を招いた原因のなかで、最も深刻だと思われる原因とそれをいちばんに挙げる理由」が示されなければならない。ひいき目に見れば、当事者にとって「自死を選択」しなければならないほどの切迫した心理状況を「内情を知らないもの」(=第3者≒大人たち)が容易に把握できないこと、それがいじめの手段として使用されたソーシャルメディアの特徴だ、と読める。ただし、これは評価を前提にした深読みレベルの解釈だ。

(つづく)

太陽の塔

車窓から眺める顔は今日も相変わらず不機嫌だった。

不機嫌なのは正面胴体部の太陽の顔だ。

 

上部の黄金の顔は未来を、

胴体部の太陽の顔は現在を、

そして背面に描かれた黒い太陽は過去を、

それぞれ表しているらしい。

 

週1回、窓越しに対面する太陽の顔は現在の心を映してくれているようで。

猛省

23日、いったんは見送られた(拒否された)ALS患者・岡部さんの国会出席が実現した。

 

拒否された経緯はちょっと複雑だ。

障害者総合支援法改正のために、岡部さんの招致を求めた民進党に対し、

与党は見返りに児童福祉法改正の審議入りを要求。

対し、民進党は保育士らの賃金引き上げをめぐる法案の審議入りを要求。

結果、協議は難航し、民進党は招致を断念。

 

「やりとりに時間がかかる」という理由で、

招致を拒否した与党の姿勢は言語道断として、

なぜ民進党は断念したのか。なぜ、もっと粘らない?

 

上の経緯を見ると、

民進党にも(「猛省」とまでは言わなくとも)「反省」を促したくなる。

 

岡部さんは

「私にできる方法で、このような生き方もあると発信することで、皆様に様々な障害に思いをはせて欲しい」

と訴えた。

 

岡部さんの言う「このような生き方」を、

私たちが「自分の生き方」と等価なものとして、

普通に、当たり前のように、感じることができる未来を切に願う。

 

もちろん、わたしにも「猛省」が必要だ。

 

 

閑話休題(小論文作成に関する覚書 No.6) 

承前

〈テーマをめぐる現状説明→問題点の指摘→解決策〉は、前に少しふれた「序論・本論・結論」の基本的な役割とそっくりそのまま重なるわけではない。受験用に基本スタイルを変える、と言えば大仰だが、「序論・本論・結論」という語の原義に引っ張られると、短い字数では要求されたことを言わずじまいになってしまう。現状の説明が手薄になったり、問題点の指摘に終始してしまい、要求されている解決策の提示ができなかったりする。ここでは「序論・結論・本論」を、単純に「解決策」←「解決策を論じるための問題点の指摘」←「問題点の指摘をする前提としての現状説明」という論理的な繋がりに変えて考え直してみる。すると、適性要件をほぼ満たすことになる。

それでは、この〈テーマをめぐる現状説明→問題点の指摘→解決策〉という展開に倣うかたちで、前に示した「いじめについて」というテーマの二つの例を再度確認しておこう。〈テーマをめぐる現状〉が最初の書くべき内容だとすれば、特別な条件がない限り、前者の例は現状説明から大きくズレた説明になっていることがわかる。初めに示すべきは、いじめの現状であり、論者の個人的な関心である〈スポーツとの関わり〉ではない。後者の例は、現在のいじめの傾向として「LINEいじめ」があることを、メディア情報に依っている。新聞やテレビ、Webは私たちが現状を知るための基本的な媒体であることは言うまでもない。

(つづく)

 

他人の志望動機

自宅PCの保存データを整理していたら、以前に添削した学生の志望動機書がいくつも出てきた。

昔は、手書き原稿をスキャナーで読み取り、プリントアウトしたそれに朱を入れ、またスキャナーで読み取り、メールに添付して返却する。そんな面倒くさいことをやっていた。

 

懐かしい。彼ら・彼女らは今ごろ何をしているのだろうか。

 

他人の志望動機書を添削することについては、ある葛藤がある。

他人の人生に口出しするみたいで罪深い気持ちが勝る。

本来、志望動機書は当人が正直に学校への(あるいは将来への)熱い思いを記すべきものである。

表現の工夫は副次的なものだから、第3者が口を挟んでもいいと思うが。

 

しかし、今どきの学生(と言えば彼ら・彼女らに失礼だが)は、

熱い思いは内に秘めたまま。

いや、表に出せない何かがあるのかもしれない。

困った。こちらが彼ら・彼女らの思いを引き出すには時間が無い。

だから、ときに、文体だけでなく、内容までもいじらなければならないことがある。

たいがい、学生は提出期限の直前に持ってくるから、そうせざるを得ない。

ひどい場合は、草案なしで一から作ってくれ、と言われる。

ヒアリングもせずに創作する。やっていることは、ほぼ犯罪的。

 

「今回の推薦入試を逃したらもうチャンスは無いんです」。これ、一種の脅迫です。

 

シーズンになると彼ら・彼女らとはあまり目を合わさないようにしている。

 

 

閑話休題(小論文作成に関する覚書 No.5) 

承前

   だだし、論文冒頭からだらだらと解決策だけを記すわけにはいかない。解決策で評価されるのは問題解決能力や向学心であって、総体的な評価基準からすれば一部にすぎない。

    解決策は問題点の指摘(原因究明)という前段の内容に基づかなければならない。原因が明確にならなければ策も何もあったものではない。ここで、〈問題点の指摘→解決策〉という論理が成立する。断るまでもなく、指摘する問題点の数と解決策の数は基本的に対応していなければならない。たとえば、問題点を3点指摘したのであれば、解決策もその3点に対応したものとして提示されなければならない。(単純に数を揃えるということではなく、解決策は前段で指摘された問題点を全てカバーするものでなければならないということ。)

    では、〈問題点の指摘→策〉の展開で全てかと言えばそうではない。問題点の指摘はテーマをめぐる現状を前提としなければ出題者の意図から外れてしまう。小論文のテーマの多くは社会問題である。(もちろん、社会問題以外のテーマもある。社会問題以外のテーマに対するアプローチは後述)。現在、問題となっていることに対してのアプローチでなければ受験小論文は成立しない。

   つまり、小論文は〈テーマをめぐる現状説明→問題点の指摘→解決策〉という展開を基本とする。

(つづく)

僕はこの非力を嘆いている

ものごころついた時にはピアノがあった。

と言えば、いかにも長い間ピアノに慣れ親しんできたように聞こえるが。

わたしは、一度も興味を抱くことはなかった。

田舎の人間だから「ピアノは女性がやるもの」とでも思っていたのかもしれない。

18歳まで過ごした実家には、何ピアノと言うのだろうか、かなり立派なものがあった。

4歳上の姉が幼少のころから長い間習っていたのを記憶している。

しかし、わたしは一度も興味を抱かなかった。

 

現在の同居者は(本人はあまり語ろうとしないが)ジャズシンガーだったころがある。

彼女の友人から聞いたのだが、ピアノの腕前も相当なものらしい。

普段は埃をかぶっている我が家の電子ピアノが、年に1、2度、

泥酔者によって音を奏でられる。

うまいのかどうなのか、素人のわたしにはわからない。

 

今まで「教えてくれ」と言ったことはない。

きっと、言っても真面には教えてくれないだろう。

 

しかし、この歳になって、一芸に秀でていない自分を嘆くことが多くなった。

小学校のとき始めた野球を中学、高校でも続けていたら、その後の人生は・・・

高校のとき「モル濃度」を中途で投げ出さなかったら、今ごろは、・・・

そして、ピアノ。

幼少のころ、姉といっしょに、わたしもレッスンを受けていたら、もしかして・・・

 

ほとんど悲しい妄想。

ただ、ピアノだけは今からでも遅くない気がする。

気がするだけでなんの根拠もない。

 

このところ、毎日、自宅周辺のピアノ教室をネット検索している。

朝の早い同居者が寝静まったあとにこっそり。

 

 

 

閑話休題(小論文作成に関する覚書 No.4)

承前

 前者は体験談をもとにし、後者は情報をもとにしている。また、前者の後の展開はスポーツといじめの関係をさらに具体化して論じていく展開だ。それに対し、後者は「LINEいじめ」に限定しているわけではなく、「LINEいじめ」を手がかりにして後は現代的いじめの問題に敷衍して論じていく。

 

 前に「評価基準」という言葉をだしたが、ここで一般的な評価基準に即して、上記ふたつの「序」について考えてみたいのだが、混乱を避けるために、評価基準のもとになっている小論文入試の出題意図から確認しておきたい。

 一般に、小論文入試ではいわゆる社会問題をテーマとし、受験生の適性を試す、といわれる。ひとくちに適性といっても、その範囲はかなり広い。共感能力、思考力、判断力、読解力、分析力、協調性、人権意識、遵法精神、向学心、等々。これら全てを考えながら小論文を作成するとなるとたいへん骨の折れる作業になる。しかし、各大学の評価基準はこれらの適性要素から最大公約数的に抽出されたものであるはずだから、評価基準の中心を想定することで、適性から大きく外れる論文は避けることができる。それでは評価基準の中心は何か。それは、社会問題に対する前向きな姿勢だ。社会問題とは社会的マイナス事項であり、その問題と真摯に向き合い、解決策を講じることだ。

(つづく)