サミットと宣長と

 

来週、サミットが開催される伊勢志摩は、ここ数年、毎年訪れる名勝だ。近鉄特急で大阪から約1時間30分。往路は松坂で降り、本居宣長記念館を訪れるのがいつものパターン。同伴者はさっさとお伊勢参りに行き、おかげ横丁をぶらぶらしたい人だから、いつもいやいや付き合ってもらっている。

 

宣長の跡に接するたびに、「この人、いったい何者なんだ」と思う。辞典の類では「国学四大人」の一人として解説されるが、小児科医であり、『源氏物語』研究家であり、歴史家であり、歌人であり、・・・。

 

わたしにとって宣長は「耐え続けた人」、そして「何歳になっても遅くないよ、だから頑張れよと言ってくれる人」。宣長は「鈴屋」に籠もり、ひたすら何十年も考え続けた。まさしく「ただ年月長く倦まず怠らず、励みつとむるぞ肝要にて」だ。

 

  ‘’  しきしまのやまと心を人問はば朝日に匂ふ山桜花  ‘’

 

それにしても、サミットと宣長はそぐわない。

 

 

 

 

閑話休題(小論文作成に関する覚書 No.3)

- 論構成について ー

 論文の基本構成として「序論・本論・結論」というのがあります。「序論」では話題を導入し、問題提起をしたり、仮説を述べたりする。「本論」は、「序論」で立てた問題提起・仮説に対し、証拠を挙げ、説得性を持たせます。「結論」は論文全体で言いたかったことをまとめるところです。

以上、概括的に示した「序論・本論・結論」はたしかに論構成の基本ではあるけれど、事前に決められた評価基準があり、そのために様々な条件を守って作成しなければならない受験小論文の場合、その自由度はかなり制限されます。「問題設定」や「仮説」は自由に設定するのではなく、答えを要求している側の意向に沿った設定でなければならない。

入試問題で「いじめについて○○字で論じよ」という問題が出されたとしよう。地方出身の自分にとって、「いじめ」は自分が所属していたスポーツ少年団内で起こったことであり、自分にとって「いじめ」とスポーツとは切っても切れない関係にある。そこで、次のような「序論」をつくったとしよう。

 

 「いじめ」はスポーツと密接な関わりをもっている。個人競技、集団競技を問わず、多くの人たちが所属していた中学、高校の部活動では部員間でのトラブルが頻繁に起きただろう。練習に取り組む姿勢をめぐって、また、能力差をチームワークでかばいきれずに、口論となる。ときに、それはいじめに発展することもある。ここでは、実体験にもとづき、スポーツといじめの関係を考察し、解決策を提示したい。

 

 「いじめとスポーツの関係について論じよ」、あるいは「いじめ問題をスポーツの観点から論じよ」というのではない。「いじめについて論じよ」というのである。スポーツについて言及してはならないというわけではなく、はじめから「いじめ問題」を「スポーツ」という限定した視点で論じてはならない。結果としてスポーツとの関連に行き着くとしても。「いじめについて論じよ」というのであれば、いじめをめぐる現状を、メディアの報じる情報などをもとにして、客観的に説明し、徐々に焦点を絞っていかなければならない。そこで以下のようなものを作ってみた。

 

 最近のメディアが報じるところによると、スマートフォンなどで使用できる無料通信アプリ「LINE」使った「LINEいじめ」というものが深刻化しているという。仲間内で文字や写真のやり取りができるLINEは、特定の人物だけメッセージを読めないように設定し、中傷の対象にできる。現代の若者にとって、この手の仲間外れは死へと追い込まれるほどの心理的苦痛である。以下、この現代的いじめの問題をさらに深く掘り下げてみたい。

(つづく)

 

ハタハタ

別名:カミナリウオ。

雷の擬声語。だから漢字で「鱩」と書く。

昔は「ゴロゴロ」ではなく「ハタハタ」と轟いたのか。

他には「鰰」とも書くらしい。

雷のことを神に例えて「はたがみ」と言ったことに由る。

動詞では「はたたく」(霹靂く)。

 

 水無月の照りはたたくにも障らず来たり。(竹取)

 

食卓に4尾並んだのを機に想いをめぐらした。

「高いから味わって食え」と言われれば神様も泣く。

 

 

 

閑話休題(小論文作成に関する覚書②)

 本来なら、じっくり時間をかけて(2年とか3年とか)取り組むべきものなのだろう。社会問題といわれる広範なテーマに対して、一つずつ真摯に向き合い、建設的な意見をもつ。自分の考えが定着したら、次は、どういう順番に説明したらよいか、を考える。読む人に分かってもらうためには筋道を立てて説明しなければならない、ということが次第に実感できてくる。文体は書いた分量に比例してだんだんと洗練されてゆき、スマートで主旨の明確な論文ができあがってくる。

 しかし、時間がない。たとえば、高校1年生の時から、近い将来の受験に備えて、論文の練習にとりかかる奇特な学生はいるだろうか。もちろん、いる。ただ、そういう用意周到な学生には説明など必要ない。むしろ、こんなインチキな解説など逆効果。多くは、AO入試を意識しはじめる高3スタート時、推薦入試に備えて秋口から、人によっては一次試験から二次試験までの1週間足らずで。そうなれば「じっくり時間をかけて」など悠長なことは言っていられない。1年で、半年で、場合によっては1週間で何とかしなければならない。

 そこで、順当な手順(?)を逆転させて、「型」から入る。邪道とか何とか呼ばれようが、「無難に」乗りきれればそれでよい。模範的な「型」を知り、それに当てはめていく。

 

 

 

 

 

青森ロス

6月号の『中央公論』に「「がん死亡」衝撃の地域格差」という特集記事。

2次医療圏別の死亡率ワースト30が紹介されている。

第2のふるさと青森がほとんどの部位でトップ10入りしている。

ああ、ゆゆしきことかな。

 

先日、5年ぶりに青森を訪れた。

大切な人の結婚式。

青森には平気で魂を揺さぶってくる人たちがいる。

仲良し4人組。永遠の恋人。気遣いか染みついた人たち。

そのうちの一人が結婚した。

教室の窓からさびしそうに外を眺めていたかつての女子高生は

幸せいっぱいの笑顔を見せた。

青森空港を離陸した瞬間から青森ロスが始まった。

 

 

 

 閑話休題(小論文作成に関する覚書 No.1)

小論文指導をはじめてもう20年近くなるな。我流ではじめて、今でも我流。

著作はないので認知はされていない。

が、最近はわたしを専門家と思っている人もいるようだ。

思ってくれてありがたいが、専門家にはほど遠い。

ただ、この業界、「わたし、専門家です」と手を挙げればそれで通りそうだから、

まぁいいか、と思う。

 

最近は高等学校で小論文の指導をする機会が増えた。

高等学校で教えるとき、少し困ったことがある。

それは市販のテキストを学生皆が持っていること。

授業を受けながら市販テキストを繰っている。

‘’ 我流がバレる ‘’

そんなことはどうでもいいが、

立派な指導書が、その装丁の美しさと裏腹に中身が・・・。

模範文例がヒドい。

文章を書くことに熟れた人が書いているのはわかるが、

受験小論文として評価できる文例になっているのか、どうか。

わたしなどは、相変わらず思っている。

「不特定多数に向けたメッセージ。だから、考え得る評価基準を想定する。」

 

「究極!平凡な小論文」執筆宣言