僕はこの非力を嘆いている
ものごころついた時にはピアノがあった。
と言えば、いかにも長い間ピアノに慣れ親しんできたように聞こえるが。
わたしは、一度も興味を抱くことはなかった。
田舎の人間だから「ピアノは女性がやるもの」とでも思っていたのかもしれない。
18歳まで過ごした実家には、何ピアノと言うのだろうか、かなり立派なものがあった。
4歳上の姉が幼少のころから長い間習っていたのを記憶している。
しかし、わたしは一度も興味を抱かなかった。
現在の同居者は(本人はあまり語ろうとしないが)ジャズシンガーだったころがある。
彼女の友人から聞いたのだが、ピアノの腕前も相当なものらしい。
普段は埃をかぶっている我が家の電子ピアノが、年に1、2度、
泥酔者によって音を奏でられる。
うまいのかどうなのか、素人のわたしにはわからない。
今まで「教えてくれ」と言ったことはない。
きっと、言っても真面には教えてくれないだろう。
しかし、この歳になって、一芸に秀でていない自分を嘆くことが多くなった。
小学校のとき始めた野球を中学、高校でも続けていたら、その後の人生は・・・
高校のとき「モル濃度」を中途で投げ出さなかったら、今ごろは、・・・
そして、ピアノ。
幼少のころ、姉といっしょに、わたしもレッスンを受けていたら、もしかして・・・
ほとんど悲しい妄想。
ただ、ピアノだけは今からでも遅くない気がする。
気がするだけでなんの根拠もない。
このところ、毎日、自宅周辺のピアノ教室をネット検索している。
朝の早い同居者が寝静まったあとにこっそり。
閑話休題(小論文作成に関する覚書 No.4)
〈承前〉
前者は体験談をもとにし、後者は情報をもとにしている。また、前者の後の展開はスポーツといじめの関係をさらに具体化して論じていく展開だ。それに対し、後者は「LINEいじめ」に限定しているわけではなく、「LINEいじめ」を手がかりにして後は現代的いじめの問題に敷衍して論じていく。
前に「評価基準」という言葉をだしたが、ここで一般的な評価基準に即して、上記ふたつの「序」について考えてみたいのだが、混乱を避けるために、評価基準のもとになっている小論文入試の出題意図から確認しておきたい。
一般に、小論文入試ではいわゆる社会問題をテーマとし、受験生の適性を試す、といわれる。ひとくちに適性といっても、その範囲はかなり広い。共感能力、思考力、判断力、読解力、分析力、協調性、人権意識、遵法精神、向学心、等々。これら全てを考えながら小論文を作成するとなるとたいへん骨の折れる作業になる。しかし、各大学の評価基準はこれらの適性要素から最大公約数的に抽出されたものであるはずだから、評価基準の中心を想定することで、適性から大きく外れる論文は避けることができる。それでは評価基準の中心は何か。それは、社会問題に対する前向きな姿勢だ。社会問題とは社会的マイナス事項であり、その問題と真摯に向き合い、解決策を講じることだ。
(つづく)